『Seven Deadly Sins』
-17:21:41
Ⅰ
状況は既に致命的な局面を迎えていた。
「昨夜から、市街をくまなく巡ってアイリスフィールを捜しています。が、依然、手がかりもなく……申し訳ありません」
セイバーの、怨嗟のこもった謝罪にも。
衛宮切嗣は微動だにしない。サーヴァントを見てすらいない。
――この男は。
柳洞寺本堂の入り口に腰を下ろしたまま項垂れる切嗣を、セイバーは燃え立つ瞳で見上げる。
――この男は、いつもこうだ。
反感を持たれること、敵意を抱かれること、殺意にさらされることには慣れている。王である限り――まして、武力を以って国を統治しようというのだから――慕われ親しまれるだけで済まぬことは必定である。滅ぼした敵、見限った同朋、切り捨てた民衆――あらゆる恨みを双肩に背負って尚、セイバーは王として在り続けた。否(いや)、在ることを望んだ。
それこそ彼女の矜持である。
心の支えであり、魂の拠り所であり、存在価値である。
――この男は。
召喚されたその瞬間から、セイバーの存在そのものを無視し続けていた。マスターとサーヴァントが協力し合わねば勝利することができぬ、この危機的状況においても、尚。
「切嗣」
批判されることは構わない。否定されることも厭わない。憎悪も悪意も甘んじて受けよう。非情な王であった自分が万人に愛されるとは思わない。
「切嗣――」
だが。
「――なんとか言ったらどうですか、切嗣。私は貴方の母親ではないのだから、黙っていても貴方の不満は伝わりませんよ」
たかが傭兵くずれの魔術師風情に無視される謂れはない。
セイバーは両拳を握り締め。
あくまで冷ややかにマスターを詰る。
「私は貴方の母親でも妻でもない。貴方の身内でも、同志でも、部下でもなければ片腕でもない。貴方と私は、同じ目的を持つ協力者に過ぎない。貴方は、自分と思想の異なる相手とビジネスをした経験もないのですか? もっとも、貴方のような青二才をわざわざビジネスパートナーに選ぶ方も、選ぶ方だが」
口の端を歪めて自嘲する。
この皮肉すら、きっと切嗣には届いていない。
「私を嫌うのは結構。貴方に好かれたいとも思いません。ですが――切嗣。私は貴方に問いたい」
馬鹿馬鹿しい。
答えなど、
返ってくるはずがないのに――。
「この戦いに、勝利する気があるのですか――貴方は?」
セイバーの予想通り。
切嗣は身じろぎひとつせず。
両の昏黒は地面に縫いつけられたままだった。
「貴方が私に直接下した、最初の命令――それは、アイリスフィールを護れという意味を含むものではなかったのですか」
第一の令呪の行使によって、セイバーは強制的に拠点たる古民家の土蔵へと移動させられた。
切嗣がどれだけ底意地の悪い性格をしているとしても、嫌がらせや悪ふざけで令呪を使うほど馬鹿でも酔狂でもない。己では対処しきれぬ差し迫った危機を察知したからこそ、切り札である令呪の行使に踏み切った――はずである。
その時点で、切嗣はアイリスフィールの保護を最優先事項としていたのだ。
それは当然である。
勝者の条件は、勝ち残ることに加えて、聖杯を手にすること。聖杯とはアイリスフィールである。即ち、どんなに頑張って勝ち残ったとしても、アイリスフィールを破壊されていれば、願いは叶わぬし奇跡は起こらない。
聖杯戦争参加者が、わざわざ奪取した聖杯を自らの手で損なうとは考え難いが――。
誰も想像すらしなかったことが、当然のように起こるのが、戦である。
「私は、貴方の先刻の判断が正しいと思うから、アイリスフィールの捜索を続けているのです。それとも、命令を撤回するのですか? だとすれば、聖杯の奪還より優先すべき事項とは何なのです? ここで座して待つことが、本当に上策だと言えるのですか?」
聖杯の儀式を行う為には、冬木にある四つの霊地の内のひとつを確実に押さえねばならない。ここ、柳洞寺に切嗣が居る理由は、セイバーにも容易に推測できる。
「私が戦場を駆けた年月は貴方よりも長い。だから、先達として述べさせていただきますが。戦の常道など、戦場では何の意味もないのですよ」
霊地の確保は、勝利の為の絶対条件である。
それは。
セイバーも理解している。
「切嗣」
屍のように動かぬマスターに向かって。
セイバーは吐き捨てるように告げる。
「コトミネキレイを、殺してきましょうか――?」
その名に。
聖杯戦争開始以前より仇敵とみなしていた男の名に。
「……ッ……」
切嗣は漸く反応らしい反応をみせた。
碧眼の見据える先。
肩を震わせて笑う切嗣があった。
サーヴァントの眼差しには憐憫すらこもっているようだった。
状況は既に致命的な局面を迎えており。
並の者ならば、思考停止に陥っていたとしてもなんら不思議はない。
――私は。
――私たちは。
とうとう、ここまで来てしまった。
痺れるほど空虚な終幕のカタルシスに、セイバーは双眸を細める。
目指したのは理想郷のはずだった。
誰も泣かない世界を創りたかった。
奇跡が起こることを願い。
救いが訪れることを信じた。
だからこそ――。
あの、真っ赤に染められた屍の丘を越えてきたのだ。
今。
セイバーの眼前にあるのは、
「……切嗣……?」
戸惑いの声が自然と漏れ出た。
切嗣は――。
最早笑っていなかった。
最早座してはいなかった。
手を伸ばせば届く距離に佇み、
傲然とサーヴァントを見下ろしていた。
「――煩瑣(うるさ)い。黙れ」
それが己に向かって発された言葉だと気付くまで、セイバーは数秒を要した。
呆然とした翠緑と。
あらゆる感情の凝った昏黒が。
暫時も逸らされることなく、からみ合っていた。
声が、
――出ない。
釣り上げられた魚のように口を開閉させるセイバーを、くすりとも笑わずに眺めた後。
切嗣は徐に顎をしゃくり、サーヴァントに背を向けた。
――ついて来い、ということか。
セイバーはきゅっと口を引き結ぶと、足早にマスターの後を追った。
廃寺ではないはずなのに、柳洞寺にひとの気配はない。大方、切嗣が小細工を弄して僧侶たちを下山させたのであろう。
靴も脱がずに堂内に上がった切嗣は、勝手知ったる様子で板張りの廊下を通り過ぎ、突き当たりの角を曲がった先にある引き戸を開いた。
そこは。
六畳ほどの、板張りの部屋だった。隅に木箱が雑然と置かれているところから察するに、物置なのだろう。掃除は行き届いており、空気はしんと冷えている。
「切嗣……? いったい……」
マスターに話しかけられた衝撃からいまだ立ち直れないでいるセイバーの隣で、切嗣は無造作に戸を閉めた。
その手で。
セイバーの腕をつかみ、引き寄せると。
「――っ、切つ――」
問いを封じるように、薄く開いたセイバーの唇を己のそれで塞いだ。
恋人同士のような甘さなど一切ない。
それどころか――。
親愛の情すら感じられぬ口づけに、セイバーの混乱は頂点に達した。
――いったい、
――彼は、何を、
そっと唇を離したマスターを。
セイバーは茫然自失の体でみつめ返した。
――いったい。
――彼は、何をしているのだろう。
ネクタイを解かれ、シャツのボタンを三つ外されたところで、セイバーは漸く我に返って切嗣の手首をつかんだ。
「なに、を――しているのですか、貴方は? 貴方は自分が何をしているかわかっているのですかッ」
切嗣は小さく舌打ちしてセイバーの手を振り払った。
「黙れと言ったはずだ」
「そのような命令には従えません」
苛立った黒瞳を、セイバーは真っ直ぐ見据える。
切に願ったマスターとの会話が、このような形で実現されるとは――運命はセイバーに対してどこまでも悪意に満ち満ちている。
「自暴自棄にもほどがある。進退窮まった末の、他に取らざるを得ない選択だとしても、あまりに愚かな振る舞いです」
――この男。
「私は、貴方の性欲処理の相手をするぐらいなら、いますぐ敵陣に突っこんで相打ち果てる方がマシです」
正気なのか――?
切嗣は。
セイバーの顎をつかみ、そっと上向かせた。
「僕は至って正気だし」
――正気なのか。
――正気のはずがない。
――正気のまま、
「どうしようもなく愚かなのはお前の方だよ」
このような愚行に走る男を、マスターにもった覚えはない。
「――ッ」
腰に回された手を振りほどき、マスターの戒めから逃れると、セイバーは引き戸に手をかけた。
――私は正気だ。
――私は正気でいなくてはならない。
――この男の狂気に引きずられてはいけない。
さもなくば、
「ッ、ぃ――!」
足を払われてバランスを崩したセイバーが、無様に転倒する。戦闘中ならば絶対にありえぬ失態に、セイバー自身が一番驚いていた。すかさず伸ばされた切嗣の手に、即座には反応できぬほどに。
「――っ――」
したたかに背中を打ちつけ、セイバーの表情が歪む。
「生娘でもあるまいし……王様のくせに、取り乱しすぎじゃないのか? 〝英雄色を好む〟っていうのは、古今東西共通だと思っていたが」
それでも。
セイバーは諦めない。
四肢の自由を完全に奪われて尚、体幹の力だけで切嗣をはね退けようとしていた。
大の男に、少女の力が適う道理はないが――。
「……馬鹿力め」
セイバーが並の少女でないことは切嗣も心得ている。
不意打ちの先制で漸くイーヴンに持ち込めた。
セイバーが平素の冷静さを取り戻せば、力の拮抗は容易に崩れるだろう。
だとすれば。
その前に。
「衛宮切嗣の名の下に、令呪を以てセイバーに命ず」
セイバーは。
ありえないものを見る目で、己を組み敷く男を見上げる。
「おとなしくしていろ。抵抗は一切許さない」
上気した顔からは血の気が失せ。
唇は怒りと屈辱に戦慄いた。
――だが、それだけ。
「ひとつ言っておくが」
碧眼の輝きが衰えたのは、令呪の効果だけではあるまい。
「性欲処理のためなら、もっとマシな相手を選ぶ。……お前の貧相な体になんか、これっぽっちも興味はない」
言い終えてから。
ひどく言い訳じみている、と切嗣は自嘲した。
セイバーは傷ついた様子もなく、物憂げな視線をマスターに送った。問いかけるどころか、言葉を発する気力すら、とうになかった。
マスターはサーヴァントに真意を告げず。
サーヴァントはマスターを信頼できぬまま。
薄暗がりの中で、切嗣はセイバーを抱いた。
Ⅱ
「どういうことだ、貴様――?」
声に含まれるのは、怒り、わずかな困惑、そして。
圧倒的な好奇心。
衛宮切嗣は海浜公園の手すりにもたれたまま、黄金のサーヴァントに無防備な背中をさらしていた。
――この王の中で、怒りと興味は並存する。
切嗣の読み通り、アーチャーは、出会いがしらに問答無用で斬りかかってくる類のサーヴァントではなかった。
なにせ。
かの者は、この世のあらゆる贅と快を手中に収めた万物の王。あらゆる欲望に忠実ならば、知識欲も常人の倍はあって然るべきである。
好奇心は猫を殺すが、此度は切嗣の命を救った。
即ち、最初の賭けには勝った。
内心安堵すると同時にほくそ笑む。
アーチャーに背を向けたまま、切嗣は徐に右手を挙げた。
「やあ。……はじめまして、アーチャー」
何も刻まれていない、まっさらな甲を見せつけるように。
「ほう……?」
聞こえてきたのは感嘆とも取れるような声。
「雑種にしては粋な余興だ。それで、セイバーの元マスターよ」
じわり、じわりと、氷点下の殺意が押し寄せる。
――まだだ。
まだ、振り向いてはいけない。
「セイバーは、どうした?」
ぞっとするほど優しげな声音と共に。
触れれば切り刻まれてしまいそうな殺気が全身を覆う。
――畏(こわ)い。
それは。
このサーヴァントと相対すると決めたときから覚悟していた、原初の恐怖。
生きとし生けるものならば例外なく、本能的に抱くであろう畏怖。
彼は。
深淵の闇のごとく。
燎原の火のごとく。
人でありながら人を超えたものであり、人と同じ地平に立ちながらも人を俯瞰することのできるものであった。
――畏れるのは。
人である限り、不可避である。
但し。
畏れを隠すことならば、不可能ではない。
あまりにも勿体ぶった動作で、切嗣はアーチャーに向き直った。
「それは、僕に問うまでもないことじゃないか?」
口元に笑みすら浮かべつつ。
「どうせわかっているんだろう――君は」
手すりに体重を預けた。
黄金のサーヴァントは、きょとんと、実に無垢な表情で魔術師をみつめ返した。
そして。
「――ク」
天を仰いで哄笑した。
「はは……ッ! くくくく――ッ――ふゥん……なるほどなるほど……」
アーチャーはこれ以上ないほど愉快そうに腹をかかえていた。
子どもように、無邪気に笑う様とは対照的に――。
赤い双眸に宿るのは、怜悧な光。
「我が妃を自害させるとは――万死に値するぞ、下郎」
切嗣は。
苦笑を浮かべた。
「あの役立たずが真実君の妃なのだとしたら、もっとまともな教育をしておくべきだった」
「これからする予定だったのだ、愚か者」
真顔で返すと、アーチャーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「使えぬ駒を切り捨てるにしては、少々遅い気もするが」
「状況とは刻々と変化していくものだ。有用性がある限りは生かす――こう見えて貧乏性なんでね」
アーチャーはわずかに頬を緩めたが。
すぐに冷酷な王の顔を取り戻した。
「あれの価値を決めるのは我だ。貴様には、あれを活かせるだけの智恵がなかった」
黄金の王は腕を組み、つまらなそうに水面を眺めた。
「そして――」
赤い瞳はいつになく憂鬱そうである。
「令呪をなくした貴様に、我が今以上の寛恕を示すと思ったら大間違いだ」
切嗣は。
徐に体を起こした。
「僕は」
一歩。
二歩。
臆することなく、サーヴァントに歩み寄った。
「絶対に勝たなければならない」
アーチャーは川面に視線を落としたまま、何も答えない。
「セイバーは――いや。セイバーだけでは絶対に勝てない。だから切り捨てた。今、この状況で、この戦を勝ち抜くためには」
他者を容易に寄せつけぬはずの王が。
己の間合いに魔術師が入ることを許していた。
――それこそ、彼の答えである。
「君というサーヴァントが必要だ、アーチャー」
互いに視線を合わせることなく、静かに時が過ぎ行く。
――正気か、この男。
巧妙に張られた大きな蜘蛛の巣の真ん中に、捕らわれてしまったような感覚に陥る。
深入りしたことを後悔しても、もう遅い。アーチャーは己を鼓舞するように、口角を吊り上げた。
「随分と、思い切った告白もあったものだなァ。ふふん……その心意気だけは買ってやっても良いが。一度マスターを裏切ったことがあるからといって、二度目があると思うなよ?」
当てが外れたな、とアーチャーは冷笑する。
切嗣は。
微笑を返した。
「……っ」
アーチャーは思わず鼻白む。
「なにが、おかしい?」
「二度目はある。君は必ず僕を選ぶ」
「……は?」
――この男。
厭悪や軽侮を通り越して、珍獣でも見るように、傍らに立つ魔術師を眺める。
――いつの間に。
これほど近付いていたのか。
切嗣は至極真面目な表情で続ける。
「僕が聖杯にかける願いは、世界の恒久平和だ」
その風貌には全く似つかわしくない願いを口にした男を。
黄金のサーヴァントは何の感情も窺えぬ表情で見返した。
そして。
「……そうか」
切嗣にも聞き取れぬほど小さな声で呟くと。
全てを理解したかのように、頬を緩めた。
――拈華微笑のごとく。
しかしながら、アーチャーは沈黙を尊ぶ性質ではなく、無垢なる微笑をすぐさま傲慢な嘲笑で上書きすると、ふんぞり返って言い放った。
「サーヴァントがサーヴァントなら、マスターもマスターだな! 貴様のような愚か者なら、我は今までも何度も――」
「聖杯は本物だ。僕の願いは叶えられる」
アーチャーは。
瞳に剣呑な光を宿した。
「貴様が勝てば、の話であろう」
「僕は勝つ。……君は僕のサーヴァントにならざるを得ない」
「なに?」
形の良い眉を跳ね上げ、アーチャーは問い返す。
切嗣は。
虚空の一点を睨みすえたまま、すらすらとまくし立てる。
「僕の願いを聞いても、君は全く動じなかった。恒久的な平和と、戦争の根絶――為政者ならば絶対に避けては通れぬ話題だ。人類最古の王である君が、そんな重要論点を無視し続けてきたとは思えない。君は――僕の願いが決して不可能でないことを識っている」
アーチャーは。
無言で先を促した。
「為政者にとって、僕の願いは唾棄すべき類のものだろう。奇跡に頼っても、そんなことは絶対現実に起こりえないと言うべきなんだ。だって、それは、僕自身が一番よくわかっているから」
でも、
でも、君は――。
「思ってしまったんだろう?」
――そんな世界が見てみたい、と。
切嗣は体ごとアーチャーに向き直ると。
静かに畳みかけた。
「そして、それ以上に、君は見るべきだ。僕の願いが叶えられる瞬間を」
黒と赤の視線が交錯する。
「人類が新たな段階に進む瞬間を、人類を初めて導いた者として、その目に焼きつけておくべきだ」
視線を逸らしたのは。
――アーチャー。
す、と一歩踏み出すと、切嗣を拒絶するように背を向けた。
「たしかに? 見たくない、と言えば嘘になる」
だが――。
「どうするというのだ? 貴様には令呪すらないのだぞ」
「問題ない」
切嗣は即答すると。
右手の甲をそっと撫でた。
Return