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龍王陛下に𠮟られるから

『ラ・トラヴィアータ』

1600/08/25 大坂玉造、細川屋敷


 人生に悔いがないと云えば嘘になる。
 あのときこうしておれば良かった、こちらの道ではなく、あちらの道に進んでいれば良かったと――思い返すことは、他人より多かったかもしれぬ。
 未練が多い。
 だから、悔いも多い。
 生そのものに執着がなくても、累積した悔悟が魂を地面に這わせる。
「御方様――」
「早う――」
 煙に巻かれながら、侍女たちが私に逃げろと云う。
 屋敷に火をつけたのは、この私だというのに。

「散りぬべき」

 受洗すればなにかが変わるかと思った。
 否、たしかに変わった。私という人間が変わりようのないことを知った。諦念である。
 己を受け入れたところで――。
 悔いが消えるわけではない。
 あのとき、こうしておれば。
 時を遡って、やり直すことができたら。
 ――そんなことばかり考える人生は、結局一生続くのだ。
「時知りてこそ、人の世は」
 もう、いい。
 もう頃合いだろう。
 やり直すことができないのなら、せめて、自分の手で終わらせなくては。
誰にも迷惑をかけずに逝くには、今、この瞬間しかない。
「……御方様」
 細川家旧臣、小笠原(おがさわら)少斎(しょうさい)が傍らに跪いた。
「今一度、ご再考くださりませぬか」
 石田方からの通達は二度。どちらも邪険に追い払った。
 三度目がないことは、お互い承知の上である。
「そなたは――」
 時折、音を立てて壁や柱が崩れるが、歴戦の忠臣は微動だにしない。
「自身の選択を、悔いたことがありますか」
「ございませぬ」
 即答だった。少斎はすこし笑ったようだった。
「臣下はそもそも選択などせぬものです。主の命にただ従うのみ」
「細川家に仕えなければ良かった、と思ったことは」
 穏やかな沈黙の後、少斎ははっきり否と答えた。
「わたしにとってみれば、これ以上ない主家でございました」
 少斎は首を垂れる。面を伏せた臣下の声は鋭い。
「畏れながら」
 老臣の諫言が心地よく耳朶を打つ。
「玉御子(たまみこ)様は、強欲であらせられます」
 ――ゆえに、悔いるのです。
「より良い道を、より良い結果を。常により良きものをお求めになられる。もっと上手いやり方があったのではないか。もっと損害が少なく済んだのではないか」
 少斎は顔を上げた。その双眸からは、畏怖と同時に憐憫が窺えた。
「それは武人の思考です。御方様には、元来、不要」
「わたくしは」
 云われなくてもわかっている。
 そんなことは。
「もっと愚かに生まれるべきでした」
 考えなくても済むように。
 悔いなく過ごせるように。
 そうすれば。
「与一郎様の『戦友』ではなく……あの方の、望むような妻に」
 口にしてみて、ぞっとした。
 そんな女に堕するくらいならば、いっそ死んだ方が良いと――。
「なれたのやもしれませぬ」
 ――本気で思っているのだ。今、まさに命を絶とうとしているこの己は。
「少斎」
 老臣は目を伏せた。最初から、お互い覚悟は決まっている。
「石田治部は、勝てると思いますか」
 さて、と少斎はとぼけた。
「勝敗は、時の運もありますれば」
「わたくしは、負ける、と思う」
 はは、と少斎は軽妙に笑う。
「ずいぶんと、自信がおありのようだ」
 勝つか、負けるかの二択だ。大して迷うことでもあるまい。
「たとえ一時でも」
 火の粉が舞う。
 一瞬、意識が遠のく。
「敗将に与するは御家の恥。今、与一郎様の足を引っ張るわけには参りません」
 わたくしはここで死ぬべきなのです。
 建前も、状況も、完璧だ。
 これを逃せば――。
 きっと次はない。
 少斎はおもむろに背後を一瞥した。
 複数の足音が近づいている。石田方の兵が既に侵入したらしい。
「少斎」
「悔いはあらねど、未練は多い質でしてな」
 立ち上がった少斎は刀の柄に手をかけ、ふっと寂しそうに笑った。
「貴女様にはもう少しだけ、生きていて欲しかった」
 すらりと抜刀する。
 兵たちがいっせいにざわめいた。
「いたぞ――」
「奥方は捕らえよ――」
 小斎は背を向け、二度と振り返らなかった。
 彼もまた、ここで散る覚悟か。

 ――散りぬべき、時知りてこそ。

 屋敷の奥へ。
 炎の渦へ。
 喉が焼ける。
 肺が焼ける。

「――お待ちください」

 袂を引かれた。
 腹心と云うべき侍女が、涼しい顔で傅いていた。
「マリア殿」
「御方様。どのような名目があろうと自死は自死。はらいそへはゆけませぬ」
 清原マリアは常のごとく切々と説く。
 キリシタンの教義そのものに傾倒したわけではない。彼女や、高山ジュスト右近様の在り方が眩しかったから、憧れた。
「良いのです」
 もとより、天国に行く気などない。
 強欲な我が身には、煉獄の炎が似合いだ。
「マリア殿、そなたも知っているでしょう。異端審問を」
 大きな黒い瞳が見開かれる。
「わたくしは、やはり、魔女だわ」
 いいえ、いいえ、と儒者の娘は必死に抗う。
「魔と対峙し続ければ、魔に染まるは必定。魔女の烙印を押された者の多くは、罪なき者だったはず。御方様とて」
「罪なら、あります」
 はらいそへはゆけませぬ。
 いんへるのに堕ちまする。
「魔女には、火炙りが相応しい」
 マリアの制止はあっけなく振り切れた。
 我が身をこの世に留め置く力は、もはや存在しない。

「……散りぬべき時知りてこそ、人の世は……」

 花も花なれ。
 人も人なれ。


2200/12/28 国内某所、刀剣調査室



 西暦二二〇〇年。
 時間遡行軍との大規模戦闘を想定し、刀剣男士の軍事運用が進められていた。
 通称、審神者プロジェクト。
 刀剣男士を顕現させる能力のある者に「本丸」を与え、そこで調練から編成、出撃までさせてしまおうというのである。
 それまでの、歴史修正主義者との戦いは常に後手だった。時間遡行軍は神出鬼没で、観測した次の瞬間には消えてしまう。遡行軍が何度も観測される時代に刀剣男士を派遣しても、遭遇できるとは限らなかった。
 結局、歴史が改変されてしまってから、その原因を突き止めて、もとの流れに戻す――という回りくどい方法をとってきた。政府の上層部は現行のままでいいという日和見だが、現場からすればたまったものではない。いたちごっこもいいところだ。
 消耗戦は回避しなければ――。
 現状を打開するには、まず、物量の差を埋めねばならない。
 人的資源と兵力の確保は、戦の常道と云える。
 審神者という指揮官。
 その隣には、優秀な補佐官が必要だ。
 刀剣男士の中でも、人に寄り添うことを得意とするモノ――。
 始まりの五振りは、そんな経緯で選出された。
 沖田総司の刀、加州清光。
 坂本龍馬の刀、陸奥守吉行。
 名刀虎徹の真作、蜂須賀虎徹。
 写しにして傑作の、山姥切国広。
 そして。
 名工之定の一振り、細川忠興の愛刀、歌仙兼定。
 五振りのデータは機密事項として厳重に保管されていた。

「――盗まれた!?」

 二十一世紀初頭に建てられた庁舎の、うらぶれた一角。
 刀剣調査室のプレートがかかった扉を開けながら、水心子正秀は取り乱した。
「そんな……だって……あ、いや」
 こほん、と咳払いすると、傍らの源清麿を鋭く一瞥した。
「詳しく聞かせてくれ」
 清麿はふわりと視線を泳がせた後、とりあえず入ろうと水心子を促した。
 室内には、応接用のテーブルと、室長である水心子のデスクのみ。「刀剣調査室」などと大層な名称がつけられているが、メンバーは水心子と清麿だけだ。
 着席した水心子はじっと清麿を見上げた。
「被害は、歌仙兼定だけか?」
 そのようだね、と清麿が肯く。
「不正アクセスの痕跡と同時に、データが失われている」
「このタイミングで、か……」
 審神者プロジェクトの中核を担う、始まりの五振り。
 経験が浅いうちにも部隊の要となって戦えるよう、入念な調整がされている最中である。翌年、遅くとも翌々年には政府の試験本丸が始動することを考えると、明らかな痛手だ。
 水心子は両手を組み、深いため息をついた。
「内部の犯行でないことを祈るが」
「犯人探しは非建設的だよ」
 清麿は軽く肩をすくめた。
「水心子は、水心子にしかできないことをしないと」
「うん……」
 そうは云われても、なにから手を付けたものか――。
「データの修復は?」
 それがね、と清麿は表情を曇らせた。
「仮死状態なんだ」
「うん?」
 冬眠状態と云ってもいいね、と清麿は大真面目に付け加えた。
「だって……データ、だろ?」
 思わず素に戻った水心子に、清麿は苦笑を返した。
「あぁ、僕の表現はわかりにくいね。ええと……」
 記憶を手繰り寄せるように、清麿の指が宙に円を描く。
「不正アクセスがあると、自動で防衛プログラムが走るんだ。
強制的に接続を切ってしまうんだね。ただ、今回は」
 相手の方が早かった、と清麿は淡々と告げた。
「あっという間にデータが失われてしまったから、最終防壁を張るので精一杯だったんだ」
 自己保存のための最終手段。
 凍結――。
 水心子は息を呑む。
「そんなに……相手は手練れだったのか」
 どうだろうね、と清麿が目を伏せる。
「ハッキングとかの専門家ではないから、正確なことは云えない。けれど、どんな防衛機構にも穴はあるからね。それが人間によって作られたものであるかぎり」
 人の手で生み出されたモノたちは、複雑な表情で顔を見合わせる。
「……歌仙兼定は」
 ぽつりと。
 清麿が呟いた。
「身を挺して庇ったのかもね」
「えっ?」
 目を丸くする水心子に、清麿は苦笑を返す。
「彼、そういうところあるから。五振り全員が攻撃を受ける前に、自分の身を犠牲にして――」
「――そんなのは」
 そんなのは駄目だ、と水心子は机を拳で叩いた。
「本体は無事なんだろう!? だったら、どうとでもなるはずだ」
 たしかに、と清麿は深く肯いた。
「どれだけ人の身が損なわれても、本体さえ折れていなければ、修復可能。
でもそれは、データあってこそだよ」
 本体というハードと、データというソフト、双方があって初めて刀剣男士は成り立つ。
 刀剣男士は審神者の霊力によって顕現するが、男士の質が審神者の力量によって左右される事態は避けねばならない。「品質管理」は政府側でなされるべきだった。
 各本丸に顕現する、刀剣男士の能力の均一化――それを可能とするために始められたのが、本体とデータの個別管理だった。
 鍛刀した本体と、政府から送られたデータ、それらを結びつけるのが審神者の霊力。刀剣男士の顕現を三つの要素に分割することで、審神者の負担を軽減した。審神者プロジェクトの肝とも云えるシステムである。
 ふ、と清麿は小さく嘆息した。
「凍結解除はたいして難しくないだろう。だけれど、目覚めた歌仙兼定は、ほとんど空っぽの状態だ。自分が何者であるかも、忘れてしまっているかも」
 水心子は閉口した。
 清麿は幼子に諭すように続ける。
「急ピッチで作業を進めたとしても、一年や二年で修復できるとは思えない。初期刀は五振りでなければ駄目なのかい?」
 水心子は苦い表情で俯く。
「決まっている、わけじゃないけど……」
 刀派や来歴を上手く分散させて厳選した五振りである。
 一振りでも抜ければ、なにかが足りない気がする。
「諦めきれない、というか」
「他の刀を選ぶというのは? 例えば」
 清麿は言葉を止め、戸口に振り返った。
 りん、と響いた清かな鈴の音。
 現れたのは、ひと一人ようやく通れるほどの、朱塗りの鳥居。
 身構える新々刀たちの前で、鳥居越しの景色がぐにゃりと歪んだ。
「――やれやれ、こんな辺鄙な場所に追いやられていたとは」
 楽しそうな声と共に、歪みの中から足が生える。よいしょ、というかけ声と共に、男の全身が室内に滑り出た。
「ごきげんよう。刀調の諸兄」
 山高帽を胸にあて、男が恭しく一礼する。
 丁寧に撫でつけた髪。上品な三つ揃い。
 あっ、と水心子は声を上げる。
「こんのすけ殿!」
 いかにも、と男は芝居がかった動作で帽子をかぶり直す。
「ワタクシが刀隠紺之助(とがくしこんのすけ)。以後、お見知りおきを」
 後半の言葉は、初対面の清麿に向けられたものだった。
 誰に対しても概ね友好的な清麿が、紺之助に対してはあからさまな警戒を見せた。
「……貴方が?」
 審神者プロジェクトのもうひとつの中核が「管狐」である。
 本丸と刀剣男士を有する審神者は、独立した武装集団の長と云える。兵を私物化し、政府の統制を逸脱することは、さほど難しくはない。無論、そうならないような対策を二重三重にするのが水心子たちの仕事だ。とはいうものの、世の中に百パーセントはないのである。
 必要なのは、完璧な防衛策ではなく、全本丸に監視役兼連絡役を配備すること。
 そこで名乗りを挙げたのが、「管の王」刀隠紺之助だった。
 各本丸に一匹ずつ管狐を派遣し、就任直後のサポートから政府との定時連絡、特殊任務の案内などを引き受ける、との申し出だった。
 ――目的はなにか。
 清麿の懸念はそこにある。
 審神者プロジェクトの後押しをすることで、管狐の元締めである紺之助になんの利があるのだろうか。
 たしかに管狐は適任だ。セキュリティも正確性も、人が作ったものよりはるかに信用できる。しかも、同スペックの個体を短期間で簡単に増やせるから、将来的な審神者の増員にも対応できる。
 ――利が、ない。
 各本丸に配属された管狐から得られる情報は、刀剣男士の生活記録くらいのものだ。政府からの報酬など高が知れているし、労多くして実り少ない仕事であることは明白である。
 もっとも。
 歴史が守られることは、政府に所属する全てのものにとっての悲願である。
 ――政府はいつから魑魅魍魎の巣になったのだろうな。
 外見は二十世紀初頭の高級官僚風を装っているが、紺之助の正体は妖狐だ。刀剣男士も人の姿を模したモノだが、狐と付喪神では価値観も在り方もかけ離れている。
 紺之助は清麿の猜疑の視線をさらりと受け流し、水心子に歩み寄った。
「歌仙兼定の件、続報を持って参りましたよ」
 紺之助はぐいと上半身を折り曲げ、新々刀の祖の刀に顔を近づける。
「結果から申し上げれば――再起は絶望的です」
 ふ、と水心子は息を吐いた。
 紺之助はすっと身を引き、艶やかに笑った。
「すでにご存じでしたか」
 いや、と水心子は静かに頭を振る。
「常に最悪の状況を想定しているだけだ。実感は、まだわかない」
 水心子の肩に手を置きつつ、清麿は紺之助を一瞥した。
「わざわざそれだけ告げるために、ここへ?」
「これは手厳しい」
 紺之助は苦笑する。
「無論、判明したことは他にもあります。例えば――」
 歌仙兼定のデータは、盗まれたのではなく、破壊されたこと。
 この「攻撃」が、時間遡行軍によるものである可能性が高いこと。
「――つまり」
 水心子はぴんと背筋を伸ばす。
「『歌仙兼定は始まりの五振りの内のひとつである』ことが、正史」
「ご明察」
 したり顔の紺之助。清麿は腕を組んだ。
「ずいぶん詳しいようだね。未来のことについて」
 ええまあ、と紺之助は肩をすくめた。
「狐にもいろいろおりましてね。星見の得意なもの、未来視のできるもの……こう見えて、存外層が厚く」
「それで――」
 清麿はふんわりした笑みに毒をにじませた。
「貴方はなにが得意なのかな?」
 ふ――と。
 紺之助はわずかに口角を上げ、挑戦的な目で応じた。
「ワタクシ、こう見えて武闘派で」
 管の王は新々刀の祖の一振りに向き直る。

「歌仙兼定を救います」

 揺るぎない信念に裏打ちされた、強い言葉。
 真正面の水心子だけでなく、斜に構えていた清麿の心にも鋭く刺さった。
「……どうやって?」
 辛うじて硬直から脱した清麿が、苦々しく問う。
「再起は絶望的、と云ったのは貴方だ」
 ええ、と紺之助はふてぶてしく笑う。
「無理ですね、このままでは」
 期待を持って、水心子は碧眼を輝かせる。その無邪気な様子に、紺之助は毒気を抜かれた。
「ご安心を。策はあるのです」
「こんのすけ殿!」
 感極まった水心子が立ち上がる。紺之助はひとつ肯き返した。
「此度の件、どうかワタクシにご一任いただきたい」
 人の身を得た狐と刀が、暫時、みつめ合う。
 金睛と碧眼の間で、言葉を超えた応酬があった。
「お願い申し上げる」
 深々と頭を下げる水心子に、紺之助は目礼を返す。
「かしこまりました」
 上着の裾をひるがえし、狐は出てきた鳥居と共に姿を消した。
 狐につままれた顔をしていたのは、清麿である。
「……わからないなぁ」
 行儀悪くデスクの端に腰かけ、首をひねる。
「どうしてそんなに信用できるんだい? あいては狐だろう」
 水心子は深々と椅子に座り直すと、親友を見上げた。
「彼はある意味、我々の命の恩人だよ」
「うん?」
 反対側に首を傾げた清麿に、水心子は生真面目に続ける。
「こんのすけ殿のロビー活動がなければ、審神者プロジェクトは初期に頓挫していただろう。私たちは有害な思想を持った個体として、刀解されていたかもしれない」
 清麿はふっと笑みを消した。
「そこなんだ」
 今度は水心子が首を傾げる番だった。
「そこなんだよ、僕の懸念は。彼が優秀なロビイストであるなら尚更だ。何故僕らを支援する? そこにどんな利が見いだせると云うんだ」
「利、では――」
 ないのだろう。
 利だけではない。きっと。
 思わず笑みをこぼした水心子を、清麿は怪訝そうにみつめた。
「……狐にも、矜持はあるのだろう」
 刀剣男士と同じとは云わないが、と水心子はもっともらしく付け加えた。
 矜持か、と清麿は嘆息交じりに呟く。
「僕にはよくわからないやつだな」
 刀剣男士の誇り、とは水心子の口癖みたいなものである。親友のことは尊敬しているが、清麿自身に矜持があるかと云われると甚だ怪しい、と思う。
「僕を打った人間にわからないことは、僕にもわからないという寸法かな」
「わからなくとも、あるさ」
 水心子の真っ直ぐすぎる言葉に、清麿は照れ笑いを浮かべた。
「ある、かな?」
「清麿は立派な刀剣男士だ。私が保証する」
「……水心子はすごいね」
 政府によって顕現されてから、くぐってきた修羅場は数知れず。窮地に陥るたびに、互いを励ましあってきた。
 今回は僕が励まされる方だったか、と清麿は内心苦笑した。
 水心子は鳥居のあったあたりを鋭く見据える。
「信じよう。こんのすけ殿と、歌仙兼定を」
 今は信じて待つしかない。
 刀剣調査室の二振りは、同じ気持ちで肯き合った。


1614/08/25 大坂天満、旧天主堂


 湿った熱気を帯びた風が、頬を撫でた。
 ガラシャがうっすら目を開けると、瞳孔がかすかな光に反応して開く。ぼやけた像が鮮明になるまで数秒。月明かりの射し込む室内。天井は高い。
 ――知っている。
 視線だけ動かすと、案の定、壁にかかった巨大な十字架が見えた。
 訪れたのは、たった一度。だが、明瞭に記憶している。真新しい樫のベンチ。蒼や紅のステンドグラス。複雑な文様の毛氈。タペストリ。異国の文字で綴られた書物。
 すべてが懐かしく、愛おしい。記憶の奔流に、しばし、溺れた。
 その段になって、ようやく――。
 ガラシャは己の体が指一本動かせぬことに気付いた。
 四肢は祭壇の上に仰臥されている。胸の上で組まれた両手は、死体を思わせる。
 ――死んでいる。
 わたしは死んだのではなかったか、とガラシャは自問した。
 兵に囲まれた屋敷で。炎に巻かれて。死んだら地獄行きだとは常々思っていたが、あの世はこの世とよく似た場所なのだろうか。
 ――そうかもしれぬ。
 ふっと力が抜けると、深いため息が漏れた。呼吸を忘れていたらしい。吸って吐くだけの行為が大層重労働だ。
 一度死んだせいかもしれぬ、とガラシャは自嘲した。
「――ハ」
 喉の、奥が。
 震えた。
「……あ……、あ……?」
 まっさきに焼けただれたはずの声帯が無傷であることに、ガラシャは戸惑った。
「あぁ……あ、あ……」
 何度声を出しても。
 何度耳を澄ましても。
 ――同じだ。
「あ、ああ――あぁ、ああ――」
 自分の口から出る、この声は。
 骨肉を通して伝わる、この声は。
 ――知らない。
 知らない女の声。
 そこまで、辛うじて均衡を保っていたガラシャの精神が、音を立てて崩れた。
「あァああああああ――! ああぁアあああああァアああああ!」
 残されたわずかな身体的自由を駆使して、ガラシャは吠える。
 まるで――。
 ガラシャの混乱をなだめるように、室内の灯がいっせいに点った。
 廊下を走る音。扉を開ける音。聴覚が正常であることを有難いと思いつつ、動かぬ体躯に歯痒さが募る。
「……あ……」
 肺らしき場所から空気を出し切って、ガラシャは静かになった。
 近寄る足音はふたつ。コツコツと木の板を叩くのは、修道士の履物か。もうひとつは草鞋だ。こちらは女か童であろう。
 ガラシャは瞳を潤すために瞑目してから、ゆっくりと瞼を押し上げた。
「随分とお早いお目覚めですね」
 金睛――。
 最も顕著な妖の特徴を前に、ガラシャは恐れるよりもひどく納得していた。朽ち果てた天主堂。ひとりでに点いた灯。死体のような四肢。これ以上、どんな魑魅魍魎が出てきても驚きはせぬ。
「ごきげんよう、玉御子様」
「は……」
 意味のある言葉を発そうとしたのに、空気が漏れただけだった。眼球では男の金睛を捉えたまま、口腔内をゆっくりと整える。辛抱強く。焦らず。正確に。
「わ」
 目的の音を発声できたことで、ガラシャはひとまず安堵した。先刻と同じ要領で、頬の筋肉を緩め、緊張させる。
「た」
 要領はつかめてきた。ガラシャは口をややすぼめる。
「し」
 わたしは――。
 妖は満足げに微笑んだ。
「ええ、存じておりますとも。細川忠興公が室、玉御子様」
 いえ、と男は壁面の十字架を見上げた。
「ガラシャ殿、とお呼びした方がよろしいか」
 先に名乗らぬ無礼を糾弾したいが、手も口も思ったように動かせぬ。
 ガラシャは仕方なく、一音ずつ虚空に放つ。
「そ、な、た、は」
 金睛の男は傲慢な面をガラシャに向けた。
「ワタクシはしがない狐。名は、紺之助と申します」
「こん、のすけ」
 おや、と紺之助はわざとらしく目を見張った。
「この短時間で素晴らしいご上達ぶり」
 視線だけで問うガラシャに、紺之助は軽く肩をすくめる。
「いかがですか、義体の使い心地は?」
 ギタイ。擬態、ではなかろう。ガラシャが問う前に、その体のことですよ、と紺之助は種明かしした。
「限りなく生身の体に近い、機械の体。魂の入ったからくり人形とでも云うべきか」
 生きているのか、死んでいるのか、判然としない。
 ただひとつ、はっきりしているのは。
 ――人ではなくなった。
 これは失敬、と紺之助は片頬を歪めた。
「人形、というのは言葉の綾。あなたはあくまで人ですよ」
 心を読まれても、ガラシャは不快に思わなかった。むしろ、話しが早くて助かる。
 それでもガラシャは会話による意思疎通を試みた。生来の負けん気故であろう。
「わたし、は」
 先刻より滑らかに紡がれる言葉。
「死、ん、だ」
 おや、と紺之助は惚ける。
「さすがはガラシャ殿。ご自身がお亡くなりになる瞬間を覚えておいでとは」
 やはり――。
 死んだのだ。
 死んだ上で、生かされている。ということは、反魂がなされたのか。
 紺之助は帽子を目深にかぶり直した。
「狐に反魂は無理です。ワタクシにできるのは、精々、時を渡ること」
 食い入るようにみつめるガラシャに向かって、紺之助は淡く微笑んだ。
「六百年後の未来から参りました。……ご無礼を覚悟で、ご助力願いたい」
 す、と紺之助が半身を引くと、背後に控えていた者の姿があらわになった。
 幼い外見に不釣り合いな、鋭い視線。青い袈裟。大きな市女笠を背負い、胸には大事そうに刀を抱えている。
「……あ……」
 ガラシャと視線が合うと、恥ずかしそうに俯いた。
 ――知っている。
 その瞬間。
 ガラシャの両腕に力がこもった。
 ぐ、と両手で祭壇を押し返し、上半身を持ち上げた。
「さもんじ、の」
 無意識に伸ばされた手。
「小夜、左文字」
 名を呼ばれた短刀は、かつて共に過ごした女(ひと)に駆け寄った。
「玉御子……!」
 まあ、とガラシャは我が子のように小夜を抱き締めた。
「触れられ、る……? あなたを、抱き締められる日が、来るなんて」
「……僕も、信じられない。あなたとまた会えるなんて」
 ぽかんと口を開けていた紺之助が、我に返って咳払いした。
「お小夜サンも人が悪い。旧知の仲なら、そう云ってくだされば」
「訊かれなかったから云わなかっただけです。云う必要があるとも思えなかったし」
 フムン、と紺之助は唸った。
「ガラシャ殿は、付喪神が見えるのですね……」
 小夜は肯いた。
「付喪神以外もね」
   ほう、と目を細める紺之助に対し、小夜は仕方なく言葉を足した。
「だから、しばらく僕が守り刀として……味土野(みとの)にいた間だけ」
「幽斎殿から託されたわけですね。それは、それは」
 紺之助はきゅっと口角を上げた。
「お小夜サン。その刀を、ガラシャ殿に」
 え、と小夜は眉をひそめた。
「玉御子は、審神者ではないよ」
「ものは試しです」
「……わかった」
 ガラシャからそっと離れると、小夜は刀を恭しく捧げ持った。
「刀に触れて、名前を呼んで」

 ――歌仙兼定。

 短刀の口から放たれた響きは、ガラシャの全身に染み渡った。
 生身と寸分違わぬ機械の右手を、鞘の上に置く。
 息を吸い、静かに吐き出す。と同時に。
「歌仙、兼定」
 幻の桜が舞った。
 その中に、紫紺の戦装束が垣間見えた。
「かせ――ん」
 小夜の呼びかけも虚しく。
 幻は幻とばかりに、歌仙の姿はあっけなく霧散した。
「彼、は……?」
 ガラシャの問いに、紺之助が進み出た。
「彼は細川三斎殿の愛刀。兼定の二代目、通称之定が一振り」
 紺之助は跪き、歌仙の元主の妻を見上げた。
「彼を、救っていただきたい」
 その前に、と紺之助は片眼をすらりと閉じた。
「まずはお召し物を。義体とはいえ、その姿は少々刺激的ゆえ」
「え……?」
 ガラシャが視線を落とすと、ぴったりしたインナースーツに包まれた、うら若い娘の肢体があった。
 それが己の体であると理解するまで、数秒。
 ガラシャは耳まで真っ赤にすると、立てた膝の間に顔を埋めて、しばらく動かなかった。

   *
 歌仙兼定のデータ損傷の噂は、政府勤めの刀剣男士たちの間で、あっと云う間に広まった。
 無論、小夜左文字の耳にも入った。始まりの五振りを狙った時間遡行軍の攻撃であること、歌仙の初期実装が絶望的であることも。表面的にはいつも通りに、内心はやきもきしながら続報を待っていると、紺之助がわざわざ訪ねてきた。
 ――お知恵を拝借できればと。
 態度こそ慇懃であるものの、小夜を巻き込む意図は明白である。
 ――また、歌仙のお守りですか。
 はい、と紺之助は悪びれずに肯いた。
 それにしても、失われたデータをどうやって修復するのか。過去に遡って攻撃を防ぐのか、と小夜が問うと、裏技を使います、と云うふざけた返答。
 ――効率的なデータ採取。一年分の成果を一日で上げる方法が、なくは、ない。
 裏技と云うか荒業ですね、と小夜は呆れた。そんな方法があるなら、全員に最初から適用してしまえばいいのに。
 いやいや、と紺之助は渋い顔をした。
 ――コストパフォーマンス的にアウトです。緊急措置ゆえ、ようやく、渋々、認可が下りた次第。ワタクシも方々に頭を下げましたし。
 そういう仕事だろうに、と思ったが、これ以上話の腰を折りたくないので、小夜は黙って先を促した。
 ――顕現した男士に修練を課すのは、最も安上がりだからです。経験値は、質と時間の乗算。たった一日の修練でも、最上の師と最善の時を選べば、百年の研鑽に値します。
 刀は使い手次第です、と紺之助は締めくくった。
 名刀だからといって、必ずしも刀剣男士になれるわけではない。歴史を守る本能と、武器としての自我。どちらも高いレベルが要求される。前者は持って生まれたものだが、後者は人との関わりの中で培われる。刀は人に使われてこそ、だ。
 ――誰に、歌仙を振るってもらうのですか。
 歌仙の持ち主といえば、名付け親でもある細川忠興が最も有名だろう。
 小夜の予想に反して、紺之助の口から出たのは意外な人物の名だった。
 ――ガラシャ夫人。
 細川忠興の妻。
 玉御子。
 驚きはすぐに納得に変わった。
 なぜなら、彼女の本質は――。
「……義体で動けるようになってまだ一時間も経ってないのに、実戦とはね」
 丑三つ時の路地を歩きながら、小夜は傍らの紺之助に苦言を吐く。
 狐は短刀に向かって軽く肩をすくめてみせた。
「善は急げと云いますし」
 ちらりと紺之助は背後を振り返る。
「退魔の家系は、義体の操作にも秀でているのでしょうかね」
 小夜と紺之助についてくるのは、ひとりの修道女。携えているのは一振りの刀。歩みはごく自然で、周囲の警戒にも余念がない。
 細川忠興の妻、玉御子は、明智光秀の娘である。父方の明智家、母方の妻木家、ともに名門土岐源氏の流れを汲む。南北朝時代に土岐氏が美濃守護を任ぜられたのは、退魔の力を濃く継ぐ一族だったからと云われている。退魔の力が即ち武門の格を決めていた時代である。
 歴史の表側では、本能寺の変しか語られぬが――。
 ガラシャの父母や姉、そしてガラシャ自身も、数多くの魔を闇に葬ってきた。
 ――生粋の戦人。
 歌仙を振るうのに、これほど適した人材はあるまい。
 二対の視線に気付くと、ガラシャはきょとんと首を傾げた。
「なにか?」
 小夜はガラシャに歩み寄り、空いている右手をきゅっと握った。
「義体の調子がおかしかったらいつでも云って。生身より頑丈だろうと、壊れるときは壊れるんだから」
「ありがとう、小夜」
 華やかな笑みを返すと、ガラシャは祈るように瞑目した。
「大丈夫。この体は、存外使い勝手がいい」
 そうでしょうとも、と紺之助が茶々を入れた。
「二十二世紀の最先端技術の結晶ですから。……ごく稀に、生まれながら義体だったんじゃないかと思われるほど、義体の扱いに長けた者が現れますね」
 向き不向きがあるのですね、とガラシャは生真面目に返した。
「体は、よいのですが……」
 心配そうに見上げる小夜に、大したことではないのですが、ガラシャは前置きした。
「この着物は……袖と襟がぴったりしているわりに、足腰がこころもとない、と云うか」
「西洋の伝統的装束ですよ」
 しれっと答える紺之助。わかるよ、と小夜は何度も肯いた。
「僕も、洋装は苦手。……シスター服なんて誰の趣味だろう」
「ワタクシだったらメイド服一択」
「……」
 冗談ですよ、と紺之助は真顔で茶を濁した。
 大坂城の南。かつて細川家を始め、大名の屋敷が連なっていたあたりを彷徨っている。
 この地を知っている――が、この景色は知らない、とガラシャは思う。
「ここは……玉造、ですか?」
 はい、と紺之助は物憂げな横顔を見せた。
「ガラシャ殿が亡くなって十四年後の、ですが」
 未来から来た狐と短刀は黙り込んだ。
 一六〇〇年八月二十五日。燃える細川屋敷の中で、瀕死のガラシャから脊髄の一部を摘出。それを二二〇〇年に持ち帰り、義体に結合させた。目覚めるまで待つ時間も惜しい、ということで、眠ったままのガラシャを連れて、小夜と紺之助はこの時間軸に飛んだ。
 一六一四年。
 大坂冬の陣、直前。豊臣家の滅亡まで、およそ一年。
 で、あるはずだが――。
「――ッ」
「……!」
 ガラシャと小夜がほぼ同時に顔を上げる。
 羽音もなく、なにかが飛んでいる。
「烏?」
「もっと大きいよ」
 自然と背中合わせになったガラシャと小夜が短いやり取りをする。
「三匹いる。気を付けて」
「小夜も」
 それ以上の会話は必要なかった。長年のパートナーのように、小夜とガラシャは呼吸を合わせる。
 おやおや、と紺之助はのんきに夜空を見上げた。
「いつ打ち合わせなさったんです? 仲間外れは寂しゅうございます」
「こんのすけ」
 小夜は鋭く質した。
「自分の身は自分で守れる、のですよね?」
 狐は金睛を細めた。
「鉄火場からは遠退いていますが、若い者に遅れは取りませんよ」
「玉御子を頼みます」
 云うが早いか、小夜は駆け出した。小さな背中は塀から屋根の上へ。飛来するものを追うように東へ。
 三匹の内、一匹が、ゆっくり旋回した。
 星の光を遮る黒い翼。ソレはガラシャを見定めると、まっすぐ地上を目指した。
 鳥――ではない。
 なにか、得体のしれぬ獣。
 ――否。
 音もなく地上に降り立ったソレは。

 人の形をしていた。

 翼だったものは鋭い鉤爪を持った両腕に変形する。
「……蝙蝠」
 呟いて、ガラシャはぞわりと総毛だった。
 優に七尺はあろうかという巨躯。
 屍のように蒼ざめた皮膚。
 両眼から流れ落ちた、  ――血涙。
 ソレは。
 祈るように天を仰ぐと。
 ゆっくりと顔を戻し、ガラシャを見据えた。
 その様は、まさに。
 獲物を前にした捕食者。
 湿気った夏の夜気は重い。
 静寂すら質量をもって圧し掛かる。
 ――魔障の夜だ。
 ガラシャは無防備に佇んでいる。
 それを降伏ととったかは定かでないが――。
 異形はぴたりと動きを止めた。
 次の瞬間。
 ――消えた。
 紺之助は目を凝らす。
 魔風と。
 鋼の打ち合う音。
「……ほう」
 妖狐の口から漏れたのは、感嘆の吐息。
 振り上げられた異形の鉤爪を。
 白刃の切っ先が防いでいた。
 ――あのわずかな間に。
 ガラシャは抜刀し、異形の初手を見切った。スピード、狙い、タイミング、力加減。
全てが完璧でないと、こうも鮮やかには決まらぬ。天稟の二文字が紺之助の脳裏をよぎった。義体を自在に操る能力と、武術の才。双方あって初めてなせる業だ。
『うゥ……ううぅウううウゥ……』
 異形は苦しげに呻く。
 ガラシャは薄く笑う。
『ち……ィ……血ぃい……』
 かぱりと開いた口。異常に尖った二本の牙。
「吸血種……!」
 紺之助の呟きと同時に、爪と刃の均衡が崩れた。
「――っ――」
 横殴りの一撃に、ガラシャの体はあっけなく吹き飛んだ。廃屋の壁を突き破り、減速する気配なく転がっていく。
 異形は獲物に追いすがった。紺之助は付かず離れず人外の戦いを注視する。
 ガラシャは中庭らしき場所に横たわっていた。義体はあの程度の衝撃では壊れぬはずだが、瞑目したまま動かない。
 掩護すべきか――。
 紺之助が背広の内側に手を伸ばすより早く、異形はガラシャに襲いかかった。
「しま――」
 柄にもなく焦慮を表に出した紺之助。
 ガラシャに馬乗りになった異形は、その牙を娘の柔肌に突き立てようとして――。
 夜天の鞘に阻まれた。
 ガラシャはもう片方の手で刀を握り異形の首を狙う――が、あえなく空ぶった。異形は飛び退ってガラシャから距離をとる。退魔の申し子は跳ね起きると、その距離を詰めて斬りかかった。
 ここにおいて。
 狩る者と狩られる者の立場は逆転した。
 両腕を羽に変え、空に逃れようとする異形を、ガラシャは猟犬のように追う。類稀な闘争本能。血に刻まれた退魔の業。
 吸血種は人の血を糧にして生きるが。
 退魔の家系は魔を屠ることでその生を贖う。
 ガラシャは屋根を蹴って中空に躍り出る。
 白銀の一閃は、異形の右翼を断った。
 片翼の怪鳥が墜落する。
 ガラシャは地上に降り立つと。
 黒い血が滴る歌仙兼定を携え、地を這う獲物に歩み寄る。
 その様は、不遜にして傲岸。
 彼女こそ――。
 魔障の夜の女王。

「首を差し出せ」

 透徹した響きと共に。
 気負いなく刀を振るう。
   ぱん、と。
 軽い破裂音がして、異形の首が飛んだ。
 一瞬の静寂を裂き、狂ったように虫が鳴き始める。
 ガラシャはさっと刀身から穢れを払うと、慈しむように歌仙を納刀した。
 星明かりの下の白面は、褒娰(ほうじ)の笑みを湛えていた。


1614/08/28 大坂天満、旧天主堂



 それから三日間、ガラシャは眠り続けた。
「――玉御子」
 目覚めてまず視界に入ったのは、短刀の気遣わしげな表情だった。
「小夜」
 ガラシャは難なくベッドから上体を起こすと、かつての守り刀を抱き寄せた。
「よかった……すべて、夢かと……」
 安堵するガラシャとは対照的に、小夜は冷静だった。
「……。夢だった方が、よかったのかもしれない」
「そんなことないわ」
 ガラシャの強い口調に、小夜は目を瞬かせた。
「どんな形であれ、こうしてまた会えたことを、わたしは嬉しく思います」
「……僕も」
 小さく同意すると、小夜ははにかみながらガラシャから離れた。
「僕は……姿はたしかに幼いけれど、中身まで子どもというわけではないから。あまりその、距離が近いのは」
 困る、と云う小夜に、ガラシャはきょとんと首を傾げた。
「嫌なのですか?」
「嫌、ではないけど」
 小夜はちらりとガラシャの傍に横たえられている刀に視線を遣る。
「あまり親しくしていると、歌仙がやきもちを焼くから」
「まあ」
 ガラシャは宥めるように鞘に触れた。
 天主堂の二階、かつて神父の私室だった小部屋は殺風景だった。窓の外は明るく、木立の葉はそよとも揺れない。ガラシャはじっとりと汗ばむ感覚を思い出したが、実際に義体が発汗することはなかった。
 ――生きているのか。死んでいるのか。
 この体がとても便利なものであることだけは、わかる。
「無事でなによりでした」
 うん、と小夜は曖昧に肯いた。
「僕は刀剣男士だからね。戦うことには慣れてる」
 刀剣男士――。
「刀の付喪神たるあなた方が、実の体を得て、歴史を守るために戦う――のでしたね」
 歌仙兼定もまた、その内の一振り。
「歴史を守ることは、あなた方の意思なのですか?」
「意思、というよりは」
 小夜はふ、とシニカルな笑みを浮かべた。
「本能、だろうね」
 ガラシャは歌仙を両手で持ち上げ、大事そうに胸に抱いた。
「この刀も」
 ――あなたの戦い方を、叩き込んで欲しいのです。
 ――刀剣男士として、戦うために。
「ゆくゆくは」
 紺之助の酷薄な声を思い出し、ガラシャは目を伏せた。
 モノであっても人の姿をした彼らを、戦場に送るために育てるのは、忍びないことだった。
 す、と手を伸ばした小夜は、ガラシャの手の甲の上から歌仙に触れた。
「同じだよ」
 小夜は正面からガラシャを見据える。
「僕たちも、あなたも。本能に従って戦う者だ」
 短刀の力強い言葉は、義体の奥深くに届き、そこに宿るべき心を慰めた。

   *

 黄昏時を待って、ガラシャと小夜は外に出た。
 十四年で――。
 こんなにも変わるのだろうか。
 茜色の世界の中で、ガラシャは墨染めの衣の裾を揺らして一回転する。
「これでは、まるで」
 ――戦のあと。
 廃墟の群れの奥に悠然とそびえる大坂城は異様だった。
 小夜は西陽を背に受けて佇む。この光景にはもう慣れたのか、表情には余裕があった。
「戦は、これから起こるはずなんだ」
 歴史(みらい)を知る短刀が、己に言い聞かせるように語る。
「慶長十九年、大阪冬の陣。翌二十年、大阪夏の陣。豊臣家は滅亡し、以降およそ二百六十年間、徳川の治世が続く」
 二百六十年。
 ガラシャは噛みしめるように呟く。
 小夜はちらりと修道女を一瞥し、頬を緩めた。
「細川家ももちろん続いたよ。二百六十年どころか、そのずっと先まで」
 ガラシャは短刀に苦笑を返すと、秀頼様は、と消え入りそうな声で問うた。
「ご自害、されたのですか」
 小夜は無言で肯定を示した。
 ガラシャは胸に手を当て、小さく十字を切ると、死者のために祈った。小夜はその様子をじっと眺め、静かに嘆息した。
「……変わらないよね、あなたは」
 生粋の戦人であり、魔に対しては無慈悲を貫くガラシャだが、根本は情に篤い。悲運の若君を弔う心の前では、敵味方の区別など塵に等しくなる。
 ――刀(ぼくら)と似ている。
 退魔の血は人間らしさを奪うのかもしれぬ、と小夜は思う。それが良いか悪いかは、判じかねるが。
 小夜は頭を振って気を取り直した。
「だから、これは異常なんだ」
 あってはならない歴史。
 存在しないはずの世界。
 ――ここも、また。
 歴史修正主義者たちが生み出した、偽りの過去。
 小夜は半身を引き、暮れなずむ魔城を睨み据える。
「僕は、あの天守閣に何が棲んでいたって驚かないよ」
 ガラシャは静かな瞳を短刀に向けた。
「わたしたちの目的は、歌仙兼定を刀剣男士として復活させること、ですね?」
「――そう。その通りだ」
 ガラシャもまた、薄墨に塗りつぶされていく城を見上げる。
「相対する必要があるなら、いずれ――嫌でも刃を交えることになりましょう」
「そうならないことを願うの?」
 ガラシャは微笑を浮かべつつ首を横に振った。
「本能と、役目と、理性。本能が役目の助けになれば良いのですが」
 ふうむ、と小夜は唸る。
「歌仙が化物斬りの刀になったら、山姥切さんに申し訳ないような気もするけど……」
 まあいいか、と小夜は珍しく投げやりになった。そもそも、もう一匹斬ってしまっている。
 鬼だろうが悪魔だろうが、斬って歌仙が己を取り戻すならそれでいい。
「行こう、玉御子」
 見せたいものがある、と小夜はガラシャを誘った。
 屋敷からほとんど出たことのないガラシャは、脳内の地図をたよりに現在地を推測する。
「玉造から東……巽……生野?」
 境界の刻が過ぎ、廃墟の街を夜の帳が覆った。
 小夜もガラシャも夜目が利く。人気のない通りを足早に進んでいたふたりは、ようやく灯りのある場所に辿りついた。
「……舎利尊勝寺だよ」
 小夜は歩みを止め、目的地を明かした。
 山門の中は――。
 驚くほど活気に満ちていた。大坂中の民衆をここに集めたと云われたら、信じてしまうほどに。
 視線だけでガラシャが問うと、小夜は周囲を鋭く見渡した。
「あの蝙蝠人間……ここに出入りする人間を狙っていたみたいなんだ」
 血。
 吸血種。
「吸血鬼(ヴァンパイア)……」
 義体の口から、ガラシャが知るはずのない単語が漏れた。
 小夜は首をひねりつつ考え込む。
「そのわりには知性が低い気がするというか……ゾンビやグールに近い気も……」
 ガラシャの視線の先で山門の脇の勝手口が開いた。
「――やあ、お早いお越しで」
 軽薄な挨拶と共に寺の敷地から出てきたのは、洋装の狐。
 飄々とした態度は健在だが、表情には疲労の色が濃い。
「サ、お入りなさい。軍議の時間ですよ」
 ぎらぎらした金睛に一抹の不安を感じつつも、ガラシャと小夜はおとなしく紺之助の後に続いた。
 あちらこちらで――。
 焚かれた火が温かい。大方の者は早々に寝床に入っているようだが、松明の傍で立ち話をする人の姿もちらほら窺えた。不安そうではあるが怯えてはいない。この敷地内は安全、ということなのだろう。
 紺之助はガラシャと小夜を庫裡に案内した。戸を開けると同時に、暖色の灯が点る。土間から板張りの床に上がった一行は、車座になった。
「お寺の人が見えないようだけれど」
 ぽつりと指摘した小夜に、さすがは短刀、と紺之助は手放しで褒めた。
「およそ七十年前の、三好長慶がらみの戦で廃寺となっていましてね。ここを取り仕切っているのは、城下の町衆ですよ」
「難民キャンプ……というところ?」
 外見とは不釣り合いな小夜の言葉に、紺之助は一瞬真顔になった。
「……。お小夜サンが現代用語を使うと不思議な感じがいたしますね」
「僕はあなたより若いんだけれど」
 す、とガラシャが右手を挙げた。
「避難してきた、ということですか? 件の――」
 ――化物から。
 紺之助は目を細めた。
「然様」
 どこから話したものか、と思案しつつ、脱いだ帽子を弄ぶ。
「吸血種、というのは」
 ガラシャの問いに、やはりそこからですかね、と紺之助はあっけらかんと応じた。
 小夜もガラシャも居住まいを正すのと対照的に、狐は片膝を立てて寛いだ。
「読んで字のごとく、人の血を啜って生きる種族です。血を吸われた者も同族になるというオマケつきで。疑いようもなく、魔に属するものです。本邦では神代に絶滅したとされています」
「先祖返り?」
 小夜の思い付きを、紺之助は言下に否定した。
「ではないのです。調べてみて驚きましたよ。今、城下を飛び回っている吸血種――ルーマニア固有のDNAを持っているんです」
 本場だね、と小夜は唸る。
 クドラクですね、と紺之助が蛇足を加えた。
「スペインやポルトガルの宣教師がルーマニアの吸血鬼を船に乗せてくる、というのは考えにくいですね。オランダ船なら……ルドルフ二世の時代ですから、なくはない気もいたしますが」
「錬金術に傾倒したハプスブルクの皇帝だね。不老不死の研究とか……あ」
 小夜ははたと言葉を止めた。
「玉御子、大丈夫?」
 ガラシャはきょとんとすると、口元に手を当てた。
「わかります。……わたしは知らないはずなのに」
 あー、と紺之助は気の抜けた声を発した。
「義体の電脳には二十二世紀基準のデータベースが搭載されてますからね」
 ガラシャはなるほどと肯いた。
「だから、わたしは吸血鬼を知っていたのですね」
 然様、と紺之助はしばし瞑目した。
「商船に乗せるにはリスクが大きすぎると思うのですよ。そもそも、吸血鬼なんて、商品としては無理があるかと」
「つまり?」
 ガラシャは結論を急ぐ。
 たっぷりもったいぶった後、紺之助は軽妙に告げた。
「つまり。そんなトンチキな代物を持ち込むのは、歴史修正主義者の他にありえまい、ということです」
 ガラシャと小夜は思わず顔を見合わせた。
「……やや理論が飛躍している気がしますが」
「大坂を吸血鬼だらけにして、どんな未来が得られるっていうの?」
 そこはそれ、と紺之助は視線を泳がせる。
「先方にも色々と考えがあるのでしょうな。それに、これは、推測というより確定事項なのです」
 疑惑の眼差しを向ける小夜に、よろしいですか、と紺之助は山高帽を頭に載せた。
「刀剣男士は、歴史修正主義者の尖兵たる時間遡行軍と戦うことになる。まったく無関係なものを歌仙サンに斬らせたって時間の無駄です。ワタクシがこの時間軸を利用しているのは、ここが歴史修正主義者によって歪められた世界だから」
 時を渡る狐はゆっくり体を起こし、胡坐をかいた。
「現時点で、大坂城はもぬけの殻です。豊臣家はとっくに滅びているのですよ」
 歴史は既に変えられている。
「じゃあ――」
 小夜は身を乗り出す。
「ここよりもっと前に遡って、歴史を正しい流れに戻さなければならない――ということ?」
 ええ、と紺之助はもっともらしく肯く。
「刀剣男士のどなたかにご出陣いただくでしょうね。いずれ」
「僕たちでなんとかするわけではないの?」
 紺之助は渋い表情をした。
「ここのような時間軸を、政府は数万単位で観測しています。……お小夜サンたち刀剣男士は、今、政府に何口いらっしゃいます?」
「……六十、に満たない」
 だからこそ、と紺之助は語気を強めた。
「プロジェクトの成功は急務。歌仙サンの再起は最重要事項」
 ガラシャは傍らにある刀にそっと触れた。
「吸血鬼を斬り続ければ……歌仙兼定は目覚めますか?」
「それは」
 わかりません、と紺之助はきっぱり告げた。
「しかし、あなたという使い手を得て、何の変化も起きないわけがない――と確信しています」
「わたしは――」
 ガラシャはしばし言い淀んだ。何度か口を開閉し、仕方なく続ける。
「――彼にとって、良い使い手でしょうか? もとは、与一郎様の刀であると聞きました」
 紺之助は迷える修道女に笑顔を返す。
「似ていると思いますよ」
「わたしと、与一郎様が?」
 いいえ、と紺之助はやんわり否定した。
「あなたと、歌仙サンが」
 一瞬硬直したガラシャは、急に恥ずかしくなって両手で顔を覆った。
 にやにやする紺之助と、赤面するガラシャを順々に見て、小夜は小さくため息をついた。
「……玉御子の方がずっと風流だし、大人だよ」
「お小夜サンは幽斎殿に似ていますよ」
「似てません」
 そうですか、と紺之助は笑みを深めた。
「余談はこのくらいにして、本題に戻りましょうか」
 紺之助はざっと今後の方針をまとめた。
 ガラシャには引き続き歌仙を振るってもらうこと。
 時間遡行軍本隊との戦闘は避け、人を襲っている吸血鬼のみを標的とすること。
 可能であれば、この現状をもたらした原因と理由を突き止めること。
 この時間軸にいる間は、元天主堂を拠点とすること。
「なにかご質問は?」
 すっと短刀の手が挙がった。
「遡行軍本隊との戦闘を余儀なくされた場合、逃げることを優先した方がいいの?」
「場合によります」
 紺之助は視線でガラシャを示した。
「歌仙サンとガラシャ殿が無事ならば」
「……そうだね。歌仙が折れたら本末転倒だ」
 無論、と紺之助は小夜を一瞥する。
「お小夜サンが折れても困りますよ。始末書ものです」
「紙切れ一枚で済むならいいじゃない」
「駄目です」
 ガラシャの強硬な声に、小夜はびくりと身をすくませた。
「歌仙兼定が悲しみますよ」
 おっしゃる通り、と紺之助が適当に調子を合わせる。
「……わかってます。歌仙が手のかかる刀であることは。僕が一番」
 柔らかく微笑んだガラシャは、すぐに表情を引き締めた。
「わたしからも、何点か質問してよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
 どきどきいたしますね、と紺之助は冗談交じりに促した。
 ガラシャはくすりともせず、淡々と述べる。
「現状の調査……すなわち、敵方の最終目標を探る必要がありますが。歴史修正主義者とは、過去に介入し、自らの望む歴史を得ようとする者たちなのですよね?」
 然様、と紺之助は神妙に肯く。
「あなたは、見ていないのですか?」
「なにをです?」
 飄々と返す紺之助に、ガラシャは食い下がる。
「自在に時を渡れるあなたなら、この世界の未来の姿を知っているのでは?」
 紺之助は金睛を瞬くと、眉間を揉んだ。
「……狐もそこまで万能ではありません。狙ってピンポイントでその時間に飛べるのは、正史の中だけです。改変された世界は揺らぎが大きすぎるのですよ」
「そうですか……」
 考え込むガラシャを、小夜は懐かしそうにみつめる。聡明であると同時に、頑固。納得するまで突き詰める執拗さは、求道者のそれである。
 可愛げがない、と本人は自虐的に云うが、彼女の夫もその父もそれを美点として愛した。
 ――女子にしておくのはもったいない。
 その一言は余計だ、と小夜は思う。
「もう一点、よろしいですか?」
 ガラシャの真っ直ぐな問いに、紺之助は破顔する。
「わたしがこのような形で生かされるのは、正史ではありえぬこと。つまり、わたしの存在がこの世界の歪みの原因になっているのでは?」
「――」
 紺之助の心底驚いた顔を、小夜は初めて見た。
 狐は苦々しく歯噛みした。
「……バタフライエフェクト、ですか」
 いやいや、と紺之助は手を振って、自らの悪い予感を追い払った。
「『ガラシャ殿は一六〇〇年八月二十五日時点で死んでいる』。屋敷が燃えた後検分がなされ、あなたの死亡は確定した」
「死体がないのに?」
 ああ、と紺之助は小首を傾げた。
「ガラシャ殿の体を丸々未来に持って行ったわけではありません。その場で脊髄の一部を抽出しただけですので、首はもとより体の大部分は残っています」
「……本当に」

 燃えたのかしら。

 魔女の言葉が室内の灯を揺らした。
 短刀は視線だけ動かして魔女の真意を探る。
「身代わりが?」
 狐は顎を擦った。
「燃えてしまえば、すべては灰……ご子息が焼け跡から骨を拾われたそうですが、それが真実ガラシャ殿のものかは」
 証明しようがない。
 ガラシャは空の一点をみつめる。
「誰も、わたしが死んでいることを証明できない」
 紺之助は帽子を目深にかぶり直した。
「あなたは死者です。黄泉の水先案内たる狐が云うのですから」
 淡い疑念を残しつつ、軍議はお開きとなった。
 調べ物が残っておりますので、と云い残して、紺之助は忙しそうに庫裡から出て行った。
 ガラシャは小夜と共に、寝静まった寺を後にする。
 勝手口の戸を閉め、通りに出た瞬間――。
「――ッ」
 ガラシャは弾かれたように顔を上げ、通りの奥に目を凝らした。

 ――ずるり。
 ――ずるり。

 それは。
 重たい黒衣の裾を引きずって、曲がり角の奥に消えた。
「……玉御子?」
 短刀の呼びかけに我に返ると、ぎこちなく微笑む。
「なんでもありません。
参りましょうか」
 夜に徘徊する、  あれは――。

 ――あれは、わたし?

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